<?xml version="1.0" encoding="utf-8" ?>
<feed version="0.3" xml:lang="ja" xmlns="http://purl.org/atom/ns#" xmlns:dc="http://purl.org/dc/elements/1.1/"><title>テアトロミリアム</title><link rel="alternate" type="text/html" href="http://teatro-miriamu.miriamu.net/" /><modified>2009-01-02T09:57:15+09:00</modified><tagline>ミリアム独自の演劇活動の拠点として開設しました。</tagline><generator url="http://jugem.cc/">JUGEM</generator><entry><title>昨日届いた『K−20』の公式ガイドブックに(某所より転載)</title><link rel="alternate" type="text/html" href="http://teatro-miriamu.miriamu.net/?eid=1137065" /><id>http://teatro-miriamu.miriamu.net/?eid=1137065</id><issued>2009-01-02T09:57:14+09:00</issued><modified>2009-01-02T00:57:14Z</modified><created>2009-01-02T00:57:14Z</created><summary>主演の金城さんのインタで印象的な言葉が。 

佐藤嗣麻子監督の仰った言葉だそうです。 
『一番大事なのは、役者がその時何を思っているかではなく、周りからどう見えるか。』 

これ、感情に流されすぎて、言うべきイメージが伝わらない役者とか。演じているつもり...</summary><author><name>ミリアム</name></author><dc:subject>考える</dc:subject><content mode="escaped" type="text/html" xml:lang="ja"><![CDATA[主演の金城さんのインタで印象的な言葉が。 <br />
<br />
佐藤嗣麻子監督の仰った言葉だそうです。 <br />
『一番大事なのは、役者がその時何を思っているかではなく、周りからどう見えるか。』 <br />
<br />
これ、感情に流されすぎて、言うべきイメージが伝わらない役者とか。演じているつもりで、どれもこれもみんな同じに見えて、結果として何をやっているんだかわからない舞台のシーンとか。 <br />
<br />
最近、いくつか見た例に当てはまりそうな気がします。 <br />
<br />
やはり舞台にしろ、映画にしろ、お客にどう見えるか。ってのは、やはり一番大事なんじゃないかと。 <br />
<br />
伝芸の場合、どう見えるかということは、最初の段階でかなり意識されています。それが型という形で長い年月をかけて洗練されていっている。そして役者が持つ必要があるのは、感情ではなくイメージだということ。 <br />
<br />
その結果、感情も情景も、不思議なことに、ちゃんと客席には伝わってくるんですよね。 <br />
<br />
ちなみに、金城さんもこの監督の言葉に、全面的に賛成しておられます。<br />
]]></content></entry><entry><title>パコの次は</title><link rel="alternate" type="text/html" href="http://teatro-miriamu.miriamu.net/?eid=1136443" /><id>http://teatro-miriamu.miriamu.net/?eid=1136443</id><issued>2009-01-01T18:44:45+09:00</issued><modified>2009-01-01T09:44:44Z</modified><created>2009-01-01T09:44:45Z</created><summary>『K-20　怪人二十面相･伝』にはまっています(笑)

観てて面白いのが、女性監督ならではの感覚が生きていること。

その第一が女性の描き方でしょうね。女性が描く女性ってのは、本当にしたたかで強い。自立していながら、それでいて可愛い。男性はどうしても女性を守...</summary><author><name>ミリアム</name></author><dc:subject>日記</dc:subject><content mode="escaped" type="text/html" xml:lang="ja"><![CDATA[『K-20　怪人二十面相･伝』にはまっています(笑)<br />
<br />
観てて面白いのが、女性監督ならではの感覚が生きていること。<br />
<br />
その第一が女性の描き方でしょうね。女性が描く女性ってのは、本当にしたたかで強い。自立していながら、それでいて可愛い。男性はどうしても女性を守る対象として描きたくなるらしい。<br />
<br />
女の強さは女にしかわからないのかもしれない。<br />
<br />
もうひとつ、女性だからこそ気づくものがある。あれは男性には想像もつかないだろうなあ。上映中につき、ネタばれできないのが辛い所ではあります。]]></content></entry><entry><title>本音です。</title><link rel="alternate" type="text/html" href="http://teatro-miriamu.miriamu.net/?eid=1117524" /><id>http://teatro-miriamu.miriamu.net/?eid=1117524</id><issued>2008-12-12T02:29:54+09:00</issued><modified>2008-12-12T06:59:07Z</modified><created>2008-12-11T17:29:54Z</created><summary>昨日とあるところへ行きました。

自分のブログに書いたことについて、おそらく言ってくる人間はいるだろうと予測した上で。場合によっては総スカンかもと思いながら。

予想通りでしたけどね(笑)。皆様、大人だったので、総スカンにはなりませんでしたが(^^;

私は...</summary><author><name>ミリアム</name></author><dc:subject>日記</dc:subject><content mode="escaped" type="text/html" xml:lang="ja"><![CDATA[昨日とあるところへ行きました。<br />
<br />
自分のブログに書いたことについて、おそらく言ってくる人間はいるだろうと予測した上で。場合によっては総スカンかもと思いながら。<br />
<br />
予想通りでしたけどね(笑)。皆様、大人だったので、総スカンにはなりませんでしたが(^^;<br />
<br />
私は感想を書く時、好き嫌いや自分の主張、私情を入れないように注意しています。今回ブログに書いたことも、外には出さずに、何度も書き直しを繰り返しています。それは、やはりそうは思っていてもきつくなりすぎたり、余計なことを書いたりしている可能性が高いからです。<br />
<br />
プロの芝居に対して、結構きつい批評をするときも、大体そういうことをやっています。こちらは全国のファン相手にやることですから。<br />
<br />
とはいっても、最近、どうしても気になる演技というのがありまして、それは感想などを読んでいただければわかると思いますが、どうしてもこの手のものにはきつくなる傾向があります。<br />
<br />
そこまでわかった上で書いています。今回、実は載せるかどうか最後まで悩んだのも事実。事情に絡んだ人たちに、ある種の心理を抱かせるのは必至の内容でしたから。<br />
<br />
しかし、事態にたまたま関わった私としては、自分に対する落とし前をつける意味でも、あくまでも中立の立場において、ジャッジしなくてはならないと思っていました。<br />
<br />
正式な感想の前に、気がついたこと、今回のことで、いろいろ思う人もあっただろうことを一言いわねばならないと思ってこちらのブログに書いたのもそのためです。<br />
<br />
自分が正義だと信じるのはかまいませんが、問題が起きる時、絶対に両者とも何らかの責任はあるのです。それが大きいか小さいか、または根本的は派生的かそういう違いでしかない。自分とは異なる立場の人から見たら、正義が正反対のものに逆転する可能性もあるということを、やはり考えておく必要はあると思います(これは私自身にも言えることです。だから同じように批判を受ける可能性はある。その責任と覚悟は負った上で、こうしてブログに書いています)。<br />
<br />
二つの感想を一気に掲載したのも同じ理由から(実を言えば片方はずっと前に書き上げて、何度も書き直しを繰り返していました)。はっきり言えば、作品の出来如何によっては、あの感想文がまったく逆になる可能性もあったことを、ここで断言しておきます。<br />
<br />
客席から見ると、舞台上で思っていること以上のものが見えてくることがあるんですよ。本当に。<br />
<br />
とにかく私のジャッジ基準は、『パッション』『お客へ向かう真摯さ』『遊び心』この三つです。それを持って見た結果があれだったということです。技術があるならそれなりに、ないならそれなりに、舞台からどれだけのダイナミズムをもって、役者の関わり合いのドラマが見えてくるか。<br />
<br />
私の反応するのはまさにそこなんです。<br />
<br />
そして全体のバランス。躍動感。命。<br />
<br />
その点において、私は今回の感想を書きました。もちろん違う感想の人がいても仕方がありません。一人ひとりの感性は異なったものですから。<br />
<br />
自分自身が間違っている可能性はあると常に思いながら、それでも書かねばならないと思った場合は書きます。書いた場合、私は嘘は書きません。というより書けないんです。だから書くことを控えた事実というのはこれまでも結構ありました。<br />
<br />
でも、その事実が作品の出来に大きく関わっている場合。感想自体を書かないようにしたい。しかしそれができないなら、やはり私はそのまま、感じたままを書くだけなんです。本音をいえば、書きたくなかったですけどね。私だって平和は好きですから。<br />
<br />
私の場合、本来的に口下手で、頭の廻りも悪いです。しかし文章ならいいたいことをきちんと、なぜかいえる(苦笑)。だから今回も、一応の事情説明ということで、こちらの劇団ブログに本音の所をUPしておきます。]]></content></entry><entry><title>ひとつお願い</title><link rel="alternate" type="text/html" href="http://teatro-miriamu.miriamu.net/?eid=1117249" /><id>http://teatro-miriamu.miriamu.net/?eid=1117249</id><issued>2008-12-11T21:16:27+09:00</issued><modified>2008-12-11T12:16:27Z</modified><created>2008-12-11T12:16:27Z</created><summary>誰にともなくいってみよう。


何かいいたいなら舞台で言おう。

何か表現したいなら舞台でしよう。

こっちをうならせるような作品がでてきたら

素直に拍手をしたいから。


言いたいのはそれだけだ。


ただし

芝居の中だけで。

というのは忘れな...</summary><author><name>ミリアム</name></author><dc:subject>日記</dc:subject><content mode="escaped" type="text/html" xml:lang="ja"><![CDATA[誰にともなくいってみよう。<br />
<br />
<br />
何かいいたいなら舞台で言おう。<br />
<br />
何か表現したいなら舞台でしよう。<br />
<br />
こっちをうならせるような作品がでてきたら<br />
<br />
素直に拍手をしたいから。<br />
<br />
<br />
言いたいのはそれだけだ。<br />
<br />
<br />
ただし<br />
<br />
芝居の中だけで。<br />
<br />
というのは忘れないでね。]]></content></entry><entry><title>ヘカテトーク『マクベス』</title><link rel="alternate" type="text/html" href="http://teatro-miriamu.miriamu.net/?eid=1098783" /><id>http://teatro-miriamu.miriamu.net/?eid=1098783</id><issued>2008-11-29T09:28:07+09:00</issued><modified>2008-11-29T00:28:07Z</modified><created>2008-11-29T00:28:07Z</created><summary>一応、来年の県芸目指してのたたき台。
毎年恒例、参加料、入場料無料のとちぎ文化フェスティバル
県民参加ステージにて

『マクベス』のひとり芝居…になるのかな？
とにかくそういうのをやります。

なにせ、時間がないのと、実験作品ですので、失敗する確率かな...</summary><author><name>ミリアム</name></author><dc:subject>演じる</dc:subject><content mode="escaped" type="text/html" xml:lang="ja"><![CDATA[一応、来年の県芸目指してのたたき台。<br />
毎年恒例、参加料、入場料無料のとちぎ文化フェスティバル<br />
県民参加ステージにて<br />
<br />
『マクベス』のひとり芝居…になるのかな？<br />
とにかくそういうのをやります。<br />
<br />
なにせ、時間がないのと、実験作品ですので、失敗する確率かなり大(爆)<br />
<br />
と、あらかじめ言い切ってしまいます。<br />
<br />
だってこれから脚本考えますから…(^^;<br />
<br />
とにかく、来年1月24日(土)16:30より<br />
栃木県総合文化センター　第3会議室にて<br />
<br />
お待ちしております。<br />
<br />
こんな阿呆な作品ではありますが、当日、精一杯つとめさせていただきます。どうぞ皆様、よろしくお願いいたします。<br />
<img src="images/makubesu.jpg" width="372" height="523" alt="ヘカテトーク『マクベス』" class="pict" /><br />
<br />
<br />
]]></content></entry><entry><title>演技というもの</title><link rel="alternate" type="text/html" href="http://teatro-miriamu.miriamu.net/?eid=1078033" /><id>http://teatro-miriamu.miriamu.net/?eid=1078033</id><issued>2008-11-10T03:50:42+09:00</issued><modified>2008-11-09T18:50:41Z</modified><created>2008-11-09T18:50:42Z</created><summary>ここしばらく、プロの舞台を観てて思ったこと。今日観た県芸でも思ったのですが。

演技を技術的にやりすぎてはいないかということ。滑舌や発声ということだけに表現を頼りすぎてはいないかということ。

壤さんもよく言うけど、技術だけに頼りすぎた演技は完璧だけど...</summary><author><name>ミリアム</name></author><dc:subject>考える</dc:subject><content mode="escaped" type="text/html" xml:lang="ja"><![CDATA[ここしばらく、プロの舞台を観てて思ったこと。今日観た県芸でも思ったのですが。<br />
<br />
演技を技術的にやりすぎてはいないかということ。滑舌や発声ということだけに表現を頼りすぎてはいないかということ。<br />
<br />
壤さんもよく言うけど、技術だけに頼りすぎた演技は完璧だけど、先が予測できすぎてつまらない。退屈なんです。<br />
<br />
後で感想を母屋の方にきちんと書きますが、日常の本人が自分の演技技術で装甲を作って動いているように見えてしまった人がいまして。ここまで極端なのは珍しいんですが、『わがたま』の巴さんも似たような印象がありましたね。<br />
<br />
なんだか演技技術が感情表現をしているとでも言えばいいのか。泣いたり怒ったり叫んでいても、なんだか体の芯からその表現が出てきているように見えないんです。外側にくっついた演技技術が表層だけで表現しているような。<br />
<br />
多分、上手くて、自信があるほどそうなりやすいのかもしれないとも思うのです。<br />
<br />
それと同じに、見えてないのに、感じてないのに台詞だけが走っていってしまう。そういうような感じの演技も多かったように思います。中身がないから、意味もイメージも伴っていないから、言葉に引っかかりもメリハリもなくなる。したがって、聞いている観客からすると言葉が上滑りして何も残らないということになりやすい。<br />
<br />
滑舌がよければ大丈夫と思われやすいですが、東京の舞台でプロの演技を見ていてもそういう人は結構多いんですよね。滑舌だけじゃだめなんです。もちろん滑舌がいいにこしたことはないのですが、何よりも自分自身がイメージを持って話せているかということが重要なんです。<br />
<br />
お能の方で友枝昭世というシテさんがいます。お能ですから謡は昔の言葉でよくはわからない。でも、この方が演じると、たとえ紋付袴で舞う仕舞でも、能面も装束も、果ては表現されている辺りの風景まで見えてくることがあります。本当にクリアに見えるんです。<br />
<br />
この方と同じで、もうすでになくなられた方ですが、観世寿夫さん。やはり紋付袴の仕舞であるのに、能面も装束もくっきりと、記録映像の上に見えてきたこともあります。<br />
<br />
何故そういうことができるのかといえば、やはりどれだけイメージをして演じるかということに行き着くのでしょう。壤さんによれば、ちゃんとイメージを見て、演じれば、波動が確実にお客に届くんだ。ということになるのだと思います。不思議ですが実際にそうなんですよね。<br />
<br />
このイメージが見えていないのに、感情の流れ任せで台詞をしゃべっている人がかなり多かった。感情だけでは世界はお客には見えません。逆に、対象物に向かうベクトルを意識して演じていれば、それがたとえただのイメージであっても、お客には確実に伝わるのです。<br />
<br />
技術に自信があるほど、そうなりやすいのではないか。観ていてそう思いました。だから壤さんは『遊べ』というのだと思います。決まりきった方法論だけでは等身大以上の演技はできません。その先に行くのはやはり、イメージであり、自分という存在、技術も含めてそういうものをいったん捨て去る。枠を壊し、『遊ぶ』ことが必要になるのではないでしょうか。<br />
<br />
実際、この間人間国宝になられた野村万作さんにしろ、すでに人間国宝の茂山千作さんにしろ、しっかりとした技術を持ちつつ、それにこだわることのない、まさに舞台上で遊んでいるとしか見えないほど、自由自在、融通無碍な演技が本当に素晴らしいのです。<br />
<br />
『遊ぶ』とは楽しむこと。自分も、自分を観てくれるお客も楽しむ。もちろん表現には、無理もありますし、役者本人にとっては辛いことも多いです。でも、それさえも遊ぶ部分の一つなのだと思います。私の感覚では、舞台を観て、泣くことも、悲しむことも、いらつき、怒ることもすべて『楽しむ』という表現の範疇に属しますので。<br />
<br />
そうなのです。演劇において描かれる物語、それによって感情を揺さぶられることそのものが『楽しむ』ことであり『遊び』なのです。そういう感情を客に与えること、それを楽しむことが役者にとっての『楽しみ』であり『遊び』である。そうでなければ、何であんなに苦しい思いをしてまで舞台に立つのかわかりません。<br />
<br />
必死に台詞を追って芝居する。感情任せで後は技術に頼る。そこには人間として存在する役がどこにもいないのです。役とは普遍であり神である。というのも壤さんの言葉。役を人間として追い求め、自分の中に真に息づかせてこそ、本当の意味で演技は完成するのだと思います。その時にだけ、役者は等身大の自分よりもはるかに大きな存在になれる。<br />
<br />
いい役者が大きく見えるのはそのためなのです。<br />
<br />
実はこれは、というか、ここだけが、技術の甘いアマチュアでも、絶対にやりようではプロさえ凌駕出来る部分であると私はおもっています。イメージを作る力、想像力というのは誰でも持っているものですから。<br />
<br />
声は出ているのに台詞がよくわからなかった。と今回の県芸の講評で言われた役者さんは、このあたりを気をつけていくといいのではないかと思います。きっとそれだけで、台詞の通りはまったく違うものになると思いますので。]]></content></entry><entry><title>終わったから言うけれど</title><link rel="alternate" type="text/html" href="http://teatro-miriamu.miriamu.net/?eid=1078016" /><id>http://teatro-miriamu.miriamu.net/?eid=1078016</id><issued>2008-11-10T03:04:46+09:00</issued><modified>2008-11-09T18:04:45Z</modified><created>2008-11-09T18:04:46Z</created><summary>県芸、終わりました。

本音をいうなら、やはり自力で自主上演して欲しかった。ということでしょうか。大変なのはわかりますし、相手方との小屋と比較して…というのもわかる。でもね。

県内の演劇団体全体のマツリを自分たちの都合で利用はして欲しくなかったです。...</summary><author><name>ミリアム</name></author><dc:subject>日記</dc:subject><content mode="escaped" type="text/html" xml:lang="ja"><![CDATA[県芸、終わりました。<br />
<br />
本音をいうなら、やはり自力で自主上演して欲しかった。ということでしょうか。大変なのはわかりますし、相手方との小屋と比較して…というのもわかる。でもね。<br />
<br />
県内の演劇団体全体のマツリを自分たちの都合で利用はして欲しくなかったです。本当に。<br />
<br />
いいたいこともわかる。こだわりもわかる。でもね。お客に向かう前に、別な方向へ向かっている。作品自体はかなりがんばっていたし、県内で見られるアマチュア作品としては確かにトップクラスだと思う。だけど…。<br />
<br />
冒頭での挨拶は余計。私も思う。指していた相手が誰だったのか、それは真実にはわからないけど。もう一度言う。あそこは公の場であって、私情を満足させる場所ではないということ。やるのであれば、やはり自主公演をして欲しかった。<br />
<br />
『遊び』ということにこだわるのは、私が常日頃から壤さんの言葉を引き合いに出して『演劇はPLAYである』ということを言っているから。本当はね『観るACT、演じるACT』に落ち着く前、『観るPLAY、演じるPLAY』にしようかと思っていた。なんだか別の意味にとられそうなんでやめたんだけど、もし、こちらのキャプションを使っていたらどうしたんだろうね。<br />
<br />
『遊び』という言葉には二面性がある。無責任な、軽い、やりっぱなしの遊びと、本当のプロが自由自在に舞台上で演じることを意味する遊びと。<br />
<br />
私は後者の意味の『遊び』を目標にしているから。<br />
<br />
一つの言葉を一面性で言い切ってしまったら、それで限定されてしまうものが出てくる。これは、あらゆることについて言えることでもあるだろう。意味も価値も、別の方向から見れば、やはりいくつも出てくる。今日の講評で、ある方が言われたように。<br />
<br />
とにかく、この事態の修復はかなりかかりそう。ということだけはいえるかもしれない。でも、当事者間だけの問題ではないよ。周囲では、いろいろな人が、いろいろな思いを抱いて見ているんだから。心配している人も、悩んだ人も多い。そのことだけは忘れて欲しくない。その人たちのおかげで、あの場所に立つことを許されたんだということもね。<br />
<br />
私は誰かさんが言ったように『いいたがり』です。それでいいと思っています。思ったことを言っちゃうような阿呆が一人ここにいる。でも、言わないよりはいいのではないかとも思っているので。]]></content></entry><entry><title>『パコ』の役者シフトについて</title><link rel="alternate" type="text/html" href="http://teatro-miriamu.miriamu.net/?eid=1014320" /><id>http://teatro-miriamu.miriamu.net/?eid=1014320</id><issued>2008-09-17T23:15:07+09:00</issued><modified>2008-09-17T14:15:07Z</modified><created>2008-09-17T14:15:07Z</created><summary>『パコと魔法の絵本』で映画的リアルさを背景でがっしり支えているのが他ならぬ妻夫木くんと役所さんですね。この作品、核となる役者さんが何人かいるように思います。 

まず上にも書いたように、映画の経験が豊かで、しかも舞台経験もある役所さんと妻夫木くんがリア...</summary><author><name>ミリアム</name></author><dc:subject>観る</dc:subject><content mode="escaped" type="text/html" xml:lang="ja"><![CDATA[『パコと魔法の絵本』で映画的リアルさを背景でがっしり支えているのが他ならぬ妻夫木くんと役所さんですね。この作品、核となる役者さんが何人かいるように思います。 <br />
<br />
まず上にも書いたように、映画の経験が豊かで、しかも舞台経験もある役所さんと妻夫木くんがリアルな存在感を持って現実の私たちの住む世界との接点を作りつつ、舞台的芝居世界、より架空性、虚構性の強い世界への橋渡しをしている。ふわりとそれを受け止めて、世界に広げている支え役が上川さん。その周囲に土屋さんや小池さん、その他の登場人物たちがふりかけのように(笑)、あるいはキラ星の如く散らばって、世界に彩りを与えている。そして阿部さんが、そのすべての人々の合間をすり抜け、ちょっかいをかけ、結びつけ、全体の流れやテンポを調整し、メリハリを与えているという感じ。もちろんそのすべての人々の中央には、無垢で純粋なパコことアヤカちゃんがいるのは言うまでもありません。 <br />
<br />
ここで重要なのは、やはり現実のリアルさが背景に巧妙に隠されているということ。だからこそ、お父さんもお母さんも、無意識のうちに、自分でも味わっている人生の苦さ、辛さを登場人物たちに重ね合わせ泣き笑いしてしまうことになるのかもしれません。その重さをしっかりと支えているんです。役所さんと妻夫木くんが。この二人に比べると、他の登場人物たちはやや軽い感じがするのです。役者としてというよりも、この映画における役割として…かな？ただ、大作においても主役級の映画俳優というのはやはりこの二人ですから、存在感の重さがそのまま現実の世界を含んでいるともいえるでしょう。 <br />
<br />
しかし、役所さんだけだとやはり弱い感じがします。似ていて、しかし対極に立つ存在がもう一人並び立つとパワーが明らかに異なってくる。パコと大貫だけだとかなり単純化され、純粋すぎて浮世離れしてしまいそうなところ、室町とタマ子のラブストーリーが存在することでより人肌の、映画的なリアルさが表れてくるといえるかも知れません。 <br />
<br />
逆に言うと、役所さんと妻夫木くんがリアルな背景をしっかりと支えているから、阿部さんがどんなにはじけても上手く軟着陸させてしまっているといえるでしょう。もしあの二人がいなかったら、ひたすら浮き上がってしまっていたかもしれません。もちろん、ソフトに受け止めて最終的にあの世界にリアルさをなじませていく上川さんの存在もあってのことですが。さらにはかなりのハイテンションをてらうことなく維持しきっている、その他の役者さんたち全員のおかげとも言えるかも(笑)。 <br />
<br />
つまりは実に役者のバランス配置がいいということになると思います。結局舞台でも映画でもアンサンブルとして、最後にどう物語が描かれていくかという所に尽きています。しっかりとした技術としての演技力はもちろんあったほうがいいですが、それよりもその世界にあった、必要性のある存在感を持った役者がそろうことの方が重要なのです。私がもし演出をするなら技術しかない小器用なだけの存在感のない人よりも、経験がなくて技術が少々足りなくても実体感を持って存在することの出来る役者の方を選ぶと思います。 <br />
<br />
その点で、今回の役者さんたちは存在感が天下一品の人たちでした。役割や配置から考えて、ほとんど換えは効かないと思います。それだけ上手く中島監督は今回のメンバーを使いこなしているといえるでしょう。 <br />
<br />
じっくり見ていると、ファンタジー的なのはあくまでも見た目であり、本質は実にリアルなストーリーであるように感じます。妖精も精霊も出てきませんしね。もちろん魔法使いも出てこない。ファンタジックな要素はほとんどないといってもいい。しかし、そこにまぶされた役者の配置と扮装、CGを使った独自の世界観によってファンタジー的に思えるような世界になっているのです。そしてそこで表現されているのは、普通の人間が、普通の人間に相対することで生まれる魔法のような奇跡ということ。手のぬくもり。差し出された手の温かさ。 <br />
<br />
大貫の殴った手の無骨な温かさを触った記憶として残したパコの姿。毎朝繰り返されるパコの頬に当てられる大貫の手、不思議そうに確認するパコ、そして『おじさんは大貫だ。』と名のる一連の流れはまるで宗教の儀式にも似て、温かさとともに本当に神聖な雰囲気さえ感じてしまいます。 <br />
<br />
あるいは、名子役時代の室町が伸ばした手にテレビ越しに手を当てようとする子供時代のタマ子の姿。 <br />
<br />
なによりも、最後のあのシーンで、一人ぼっちで深い水底に沈んでいくパコに伸ばされたガマ王子の手のやさしさ、温かさは救いでした。 <br />
<br />
何気ないけれど、そこから救いは生まれてくるのだと思える。もしも、リアルな日本の現実の病院や人間たちのままで描かれていたら陳腐になってしまうかもしれないまっすぐなメッセージが、ファンタジックな虚構性の装飾を施すことで、素直に観客の、子供たちだけではなくお父さんもお母さんも感じることが出来る。そういう仕掛けなのではないかと思えてきたのです。 <br />
<br />
あるいは…とおもうのです。私が小さい頃、田んぼの向こうに見えていた町並みが、何か自分のまったく知らない、わくわくとした経験をさせてくれる別世界のように思えていた記憶。そこからすると、あの登場人物たちは、最初からパコの心に映っていた現実の人間たちの姿だったのではないかと。ひょっとしたら本当は普通の姿のただのおじさんやお姉さんやお兄さんだったのかもしれない。でも、パコの目にはひとりひとりがおとぎ話の登場人物のように見えていたのかも。そんな気もするのです。それがあってこその、あのサマークリスマスのお芝居の実体化なのでしょう。 <br />
<br />
ディズニーランドを連想した方が多いのもわかる気がするのです。大人たちでさえ、あの入り口ロータリーに入った瞬間、子供の頃に戻ったような、浮き浮きわくわくした気分になってしまう。この『パコと魔法の絵本』という映画も本当によく似た気持ちを呼び覚ましてくれるように思います。 <br />
<br />
でもディズニーランドとは違うのは、その背景にリアルな現実の人生が織り込まれているということ。中島監督も仰っているように、あの人たちはそのうち、また、元の日常に帰っていくのでしょう。そしてまた、日常の中に絡めとられ…、でも、パコとの出会いの記憶はほんの少し、それまでの人生とは違った光を心の中に与えてくれる。そのように思えます。 <br />
<br />
世知辛い人生を歩いてきて、思わず入ることになった病院という非日常の世界でであった物語。これからも苦い人生を送ることになるかもしれないあの登場人物たち。でも、その心の中にはほんのひとかけら、温かい輝きを放つパコという小さな宝石が仕舞い込まれました。それはとても小さい輝きだけど、変わらぬ日常の中できっと、ほんのわずか、それまでとは違った思いを心の中に宿すことになるかもしれません。それもまた小さな、魔法のような奇跡。 <br />
<br />
なんとなく、そういうお話だったように、思えてきたのです。]]></content></entry><entry><title>ひさびさUP　『パコと魔法の絵本』感想</title><link rel="alternate" type="text/html" href="http://teatro-miriamu.miriamu.net/?eid=1011346" /><id>http://teatro-miriamu.miriamu.net/?eid=1011346</id><issued>2008-09-14T20:43:07+09:00</issued><modified>2008-09-14T12:12:13Z</modified><created>2008-09-14T11:43:07Z</created><summary>舞台『MIDSUMMER CAROL　ガマ王子VSザリガニ魔人』を原作とした映画。でも、中島哲也監督が『舞台以上に芝居的に』と言うように、実に舞台の芝居そのものの映画でした。 

『映画で舞台と同じ芝居をやって何が悪い。』(笑)がコンセプトらしい。でも、本音、実際、栃木県...</summary><author><name>ミリアム</name></author><dc:subject>観る</dc:subject><content mode="escaped" type="text/html" xml:lang="ja"><![CDATA[舞台『MIDSUMMER CAROL　ガマ王子VSザリガニ魔人』を原作とした映画。でも、中島哲也監督が『舞台以上に芝居的に』と言うように、実に舞台の芝居そのものの映画でした。 <br />
<br />
『映画で舞台と同じ芝居をやって何が悪い。』(笑)がコンセプトらしい。でも、本音、実際、栃木県の舞台でもこのくらいのテンションを持った作品が観たいです。県内の演劇関係者は一度この映画をぜひともごらんあれ。絶対に参考になることうけあいです。本当にいい芝居を観た感覚が最後に残りました。もちろん、映像ならではの表現もたっぷりと楽しんだ上で。 <br />
<br />
三谷幸喜監督の『ザ・マジックアワー』も盛大に舞台的感覚を持ち込んだ作品でしたが、あれはどちらかというと、映画的リアルの方向に引きずられすぎていたのかもしれません。だからそこはかとない居心地悪さが最後まで残ったのかもしれないと、今日思い至りました。 <br />
<br />
今回の『パコ』くらい、思い切りキャラを見た目まで込みで作り上げてしまい、完全に舞台同様の芝居をさせてしまう。背景となる世界も絵本そのままのカラフルなおもちゃ箱をひっくり返したような世界(ただし、ディズニーのような無菌性はなく、どこか毒を持ち、どこか日本のサーカス的な汚さ…違うか、ううむ、どこかくすんだ絵の具をまぶしたというか、でも実際は原色の嵐なんですが。うまくいえない…)。そうなると、どれだけ芝居的でも、まったく不思議に違和感がなくなるもんなんですね。 <br />
<br />
無名塾出身の役所さん、この間初舞台を踏んだ妻夫木くん、舞台ベテランの阿部サダヲさんに上川隆也さん、さすがの舞台的テンションを維持した怒涛の演技。この作品、他のキャストも込みで、ただ一人でも、普通のテンションに戻ってしまったら、世界が見事に壊れてしまったでしょう。本当に凄いなあ。その中に本当に純な、ルネサンス期のラファエロなどの描いた聖母マリアに似た風貌を秘めた、アヤカ･ウィルソンちゃんは、まさに天使。いや、ひょっとしたら、苦悩の中に沈む病院の人々を救うために現れた姿をやつした聖母マリアだったのかもしれません。可愛くて無垢。ヘンな手垢がついていない素直さがよかった。 <br />
<br />
子供は感覚だけで観てそのまま楽しめます。大人は人生の苦さ、辛さを知っていると、それだけいくらでも泣き笑いできます。深いけど、子供でも楽しめる豊かさがスクリーンの中につまっています。登場人物の誰もがそれなりに現実の中で苦い人生を送ってきているのです。その中で、パコだけは永遠に続く今日を生きている。来る日も来る日も誕生日の1日だけを。もうすでにいないママからもらった絵本を、その日もらった誕生日プレゼントだと信じて読んでいるのです。 <br />
<br />
過去から明日へ、現実の苦い人生を引きずって生きる大人たちと、過去を忘れ、永遠に来ない明日を信じて今日だけを生きているパコの無垢さ。この対比。 <br />
<br />
だからこそ、パコのために、明日には記憶がリセットされてしまう無垢な少女のために、永遠に変わらない今日ではなく、ひと時のプレゼント。病院主催サマークリスマスの芝居として、パコがいつも読んでいる絵本の物語を上演しようと思い立ったのです。 <br />
<br />
この芝居の場面が映像ならではの表現になっています。手作りっぽい扮装をした大人たちの姿が、パコの目には実際のガマ王子やザリガニ魔人となって見えてくる。ここの実写とCGの融合が見事の一言。めまぐるしく現実と空想の世界が入れ替わり立ち代り現れる表現。それなのに、納得して観られてしまうのが不思議なくらい。BGMとあいまって、これは燃えます！(萌えるではない) <br />
<br />
役所さん演じる大貫のくそじじいっぷりとか、妻夫木くん演じる元名子役の室町の壊れっぷりとか、小池栄子の看護婦演じる沼エビの魔女の『ぶげげげげ〜！！！』とか、阿部さんのヤゴ！(爆)とか、見所はいっぱいです。しかし、役者のシフトがきっちりと決まっているし、みんな見事に演じているから、狂言回しの阿部さんがまたきっちりはまって、いい所でしゃしゃり出てくるのが楽しいこと。 <br />
<br />
本気で、ラストシーンでは拍手したくなりましたよ。もししてたら、多分みんなも拍手したような気がします。しかし、子供がしゃべる声も、思わず立ち上がって、乗り出して見ているのも、まったく気にならないという実に不思議な映画でした。なぜかみんな食べ物残してるし(爆)。隣のお母さんは泣いたり笑ったり大忙しでしたし(あれじゃ疲れるよなあ…。）。終わった後木村カエラの歌が耳にこびりついてエンドレス状態だし…(苦笑)。 <br />
<br />
なんだか、スクリーン大の大きな絵本を子供に戻って誰かに読んでもらっていたような不思議な雰囲気の映画でした。うん、絵本です。本当に今回の映画そのものが『魔法の絵本』そのものだったような気がします。今回、あまりストーリーそのものは説明しません。大まかな所は書きましたが。出来たら映画館に行って、ぜひとも、この不思議な『魔法の絵本』を読んでもらってみてください。]]></content></entry><entry><title>『わがたま』雑感　気になる言葉。感想のまとめとして。</title><link rel="alternate" type="text/html" href="http://teatro-miriamu.miriamu.net/?eid=943816" /><id>http://teatro-miriamu.miriamu.net/?eid=943816</id><issued>2008-07-12T08:29:37+09:00</issued><modified>2008-07-11T23:33:16Z</modified><created>2008-07-11T23:29:37Z</created><summary>2008年06月15日

『馬』 

…じゃじゃ馬という言葉もありますし、あるいは結婚式で新郎の友人代表の言う『新車』と同義語かとも。 

義仲の罵倒の言葉の中にある表現は巴の女性性の象徴とも思えますしね。女の胎内ってのは、男にとっては案外怖いものらしい。という...</summary><author><name>ミリアム</name></author><dc:subject>考える</dc:subject><content mode="escaped" type="text/html" xml:lang="ja"><![CDATA[2008年06月15日<br />
<br />
『馬』 <br />
<br />
…じゃじゃ馬という言葉もありますし、あるいは結婚式で新郎の友人代表の言う『新車』と同義語かとも。 <br />
<br />
義仲の罵倒の言葉の中にある表現は巴の女性性の象徴とも思えますしね。女の胎内ってのは、男にとっては案外怖いものらしい。というのは本宮ひろ志氏の『雲にのる』というマンガの作品で、とんでもないシーンが出てくることにも表されているような気がします。 <br />
<br />
未知の世界への通路。暗黒への道。闇へと続く底なし沼。そこにはどろどろとした情念の黒い炎が燃えている。と、義仲にとっては巴の女性原理が見えていたのかもしれません。それが向かっている方向も(つまりは実盛)。だから巴を拒否した。馬も拒否した。そういうことなんでしょう。きっと。 <br />
<br />
巴は自らが頼りたい、大事にした人間を自らの手で殺す運命の中に生きている。それによりこの世における存在基盤が根本から崩れ去っていく。人間の女としてのそういう要素と共に、わが神と思いたい存在を自らの手で抹殺するという、自らの胎内に神を宿すという巫女の本質をも否定されている。日本において、巫女と神との関係は古代、常に恋であり神婚であったのです。それでもなお、『巴の身体の闇に新しく義仲殿の魂を塗りこめました。』と言ってしまう。義仲は偽りの仮の神に過ぎない。しかも巴の胎内そのものを罵倒するほどに怖れている。そのようなものを本当に塗りこめるはずがない。女であれば。 <br />
<br />
この欺瞞が巴をさらに血みどろの狂気に陥れていく。闇の巫女とも言うべき存在へと変えていく。本当はこのあたりが描かれていなければならなかったんですが。女性という性、巫女としての性（さが)、狂おしい激情を持つ女であり巫女である巴が、その女性原理(巫女が巫女である基盤もここにある)を汚され否定されつくし、その先に闇の巫女、狂気の巫女として立ち現れてくる。そうすれば、巴の立ち位置は明らかになります。実盛を挟んですべてを冷静に見る存在へと変わった五郎と対峙する。そして、義仲側があの親子の物語と接続され、一つの大きな神話として立ち現れる。 <br />
<br />
今回、この二つの物語はどこまでも平行線で有機的に融合することはなかったような気がします。実は以前、『奇跡の人』を観た時に、この物語が実はヘレンをはさんだアニー･サリバンとヘレンの母ケイトの対峙するドラマだと、大竹しのぶ、余貴美子という配役によってわかったということがありまして。その時の舞台で展開された物語は、以前に観たものより、はるかにダイナミックなものになっていました。つまりはそういうものが生み出されてしかるべきだったのに、そうならなかったということ。それもこれも巴がどこまでも等身大の、ただの悲劇の女性でしかなかったからに他なりません。 <br />
<br />
『戦争が狂気を生み出すのではない。人の狂気が戦争を生み出すのだ。』 <br />
<br />
これがまったく逆に観客に捉えられてしまったこと。それが巴を等身大にしてしまった、あの実力派女優さんの導いた結果だったということになるのだと思います。しかもその狂気が、いわゆる現世レベルのものではない。神話レベルのものでなければならないのに、あまりに表層的に描かれていたのが残念でした。存在の奥底から発するどろどろとした…白石さんあたりが得意そうだな(苦笑)。もう少し、現代劇役者さんたちには頭で戯曲を読むのではなく、魂で感じることをお願いしたいと、切実に思ったことではありました。 <br />
<br />
『化けもの』 <br />
<br />
人生50年の時代に60歳まで生きて、穏やかなじい様としての生き方ではなく、戦乱に次ぐ戦乱を求めて生きている。闘うことそのものが自分の存在という、実盛自身の生き方を思っての言葉でしょう。60歳過ぎて若いのが駆け回る戦場で、嬉々として戦い続ける己、自分の子供のようなものたちを斬り伏せ、倒していく自分。どう見ても尋常な存在ではない。精神も肉体も。それはあるいは自慢してもいいことなのかもしれないが、人としての生き方としてはどうなのだろう。まともじゃない。という自覚が背景にあるような気がします。だから五郎が『父上…。』とその後の台詞を続けるのです。 <br />
<br />
しかし、一方でその生命力、何者にも犯されず、揺るがされないその意志の強さはやはり、あの大ひのきに例えられるものでもあるわけで。凛とした、毅然とした魂を巫女である巴はわが神と見ているわけですから。そういうところから見れば、実盛はこの物語においては間違いなく特別な存在としての位置を得ているということになるのでしょう。 <br />
<br />
ということは、実盛＆五郎パートでは、不完全ながらも神話的世界が展開していたということになるのでしょうね。しかし、その分、この親子の物語が、他の部分と比べて浮き上がりすぎてしまったということもあるかもしれません。何しろ、この二人だけで、舞台すべてが埋まっている感がありましたから。巴たち、現代劇メンバーの方では、どう見ても舞台の上に等身大の役者がそろっているという構図しか感じられませんでした。だから、その周囲以外は…、ああ、セットがでかいな。という思いしか浮かばないんですね。あのセットが違和感があるのは、役者がセットに乗っているからで、実盛親子のように舞台全体を飲み込んでいれば、それほど違和感が生まれては来なかったのではないかと思います。つまりは、ここでも等身大の存在感、演技が問題になってくるということ。 <br />
<br />
とにもかくにも、そういうわけで、今回の公演、伝芸組の充実度と比べ、現代劇組の力不足…というよりも、役や戯曲の理解不足が露呈した作品になったということが言えそうです。といっても、同じような問題は、『子午線の祀り』でも指摘していたことではありますが。演技を通り一遍の理解で演じる。等身大の演技ばかりがもてはやされる昨今ではありますが、それってどうよ？と、蜷川さんや伝芸組の視点から異議申し立てをしているような、そのような印象の残った作品だったと思います。何せ品格はもとより技術的、役作りの魂の入れ方、舞台上の存在感すべて、現代劇組は白旗状態の結果になったとしか言いようがありませんから。 <br />
<br />
まったく同じことを、そういえば、石田幸雄さん(野村万作さんの弟子)親子の出た『高野聖』でも感じましたね。本当に伝芸恐るべしです。ということで、このあたりで『わがたま』に関する感想を締めとしたいと思います。毎度のことですが、長々とお付き合いいただき、本当にありがとうございました。<br />
]]></content></entry><entry><title>「わがたま」戯曲を読む?</title><link rel="alternate" type="text/html" href="http://teatro-miriamu.miriamu.net/?eid=943814" /><id>http://teatro-miriamu.miriamu.net/?eid=943814</id><issued>2008-07-12T08:26:25+09:00</issued><modified>2008-07-11T23:26:25Z</modified><created>2008-07-11T23:26:25Z</created><summary>2008年06月15日

武将低く笑う。 

武将　その口のききよう、眼のかがやき……まるで五郎そっくり… 

　武将の声は女性のようだ。 



巴　　……わたしは巴であって巴でない。巴という女の魂は半年前に死にました。われとわが手で殺しました。そしてこの巴の身体の...</summary><author><name>ミリアム</name></author><dc:subject>考える</dc:subject><content mode="escaped" type="text/html" xml:lang="ja"><![CDATA[2008年06月15日<br />
<br />
武将低く笑う。 <br />
<br />
武将　その口のききよう、眼のかがやき……まるで五郎そっくり… <br />
<br />
　武将の声は女性のようだ。 <br />
<br />
<br />
<br />
巴　　……わたしは巴であって巴でない。巴という女の魂は半年前に死にました。われとわが手で殺しました。そしてこの巴の身体の闇に新しく義仲どのの魂を塗りこめました。 <br />
<br />
<br />
<br />
分析するべき対象はこの二つの台詞です。まず、今回の巴さんが、どのようにここを演じていたか思い出してみます。最初から肩をいからせ、足を開いて踏ん張り立ち、そっくり返って、えらそうに扇を振り回しつつ、ややつぶし加減の声で、男のように凛々しく（と本人が思っている形で）しゃべっていましたね。何の迷いもなく。自信に満ちて。すいません。だからここで、私は下の記事のように思えてしまったわけなんです。ある種、女が男を演じようとすると必ず陥るパターン。悪い意味の型芝居となっていました。 <br />
<br />
実際、あのような格好で立っている男性陣はいましたか？実盛はじじぃなので、ちょい姿勢が変わるからおいておくとして、五郎は、ごんずはどうでした？誰もあんな格好で立っている人などいない。こっけいなまでにデフォルメされたお偉い男の武将の図。壤さんがよくワークショップで言う『王様になって歩いてくださいというと、ほとんどの人間がみんなそっくり返ってえらそうに歩く。十二指腸潰瘍の王様も、気の弱い王様も、悪人の王様もいるはずなのに。（話を聞いている人たちに）笑っているけれど、本職の俳優でもやってしまう。』。まさにこの状態そのものという悪い例の代表だったわけです。 <br />
<br />
そしてしゃべり方。トーンが変わっているのではなく、同じトーンで、ただ声をつぶして発声しているだけです。口調もまあ、指導者的女性が男化した時のようなやたら自信に満ちたような言い方ですね。でも、これをやるとおばさん声になってしまうんです。さらに声をつぶすってのは、いわゆる越後屋お代官声（苦笑）。素直に声を出すのと違ってややお品が悪くなりやすい。つまりはこういった要素があいまって、あの造形の印象が出来上がってしまったということなのではないかと思われます。 <br />
<br />
そしてもっとも問題だったのが、肝心の中身。巴という存在の中に、最初から最後まで一本通った魂が存在していなかったことです。おそらく台詞の言葉の上っ面だけに寄りかかって役作りをしたのでしょう。言葉から連想される、それまでの経験から引っ張り出されるパターンの寄せ集め芝居。いわゆる器用な役者が陥りやすい過ちです。自分の方が主になって、戯曲に従うことを忘れた芝居。某お方が仰っていたように、まさに傲慢。その結果、『子午線』の某役名M氏は一番肝心な場面で観客の笑いを呼んでしまったわけです。 <br />
<br />
さて、その上で上に書いた台詞を分析してみます。というよりも、まずは巴役者さんに従って、男の声で男の口調ではじめの台詞をしゃべってみたわけなんですが。しゃべった途端、恐ろしいほどの違和感に襲われました。台詞が男の感性を拒否したといってもいいかもしれない。とにかくあの台詞、男の感性で語ると、どうしてもあの巴さんと同様、『ああ、五郎に似ているぞ。』という言葉の意味以上の内容が浮かんでこないんです。しかし、重要なのは、戯曲を全部読んで形成された巴の魂の核がその感性と言葉の意味内容を否定しているということ。違和感は間違いなくそこから生まれてきているのです。 <br />
<br />
結論を言ってしまえば、巴という人間の場合、あの台詞は女の感性で、女の声で話されるべきものだということです。ご丁寧に、ト書きには低く笑う（明らかな笑い声ではありません）、そして、武将の声は女性のようだ。とまで明かされているんですが。ここまで書かれているのなら、それは明らかに作者の意図がそこにあるということ。この巴さん、後の方でも夢の中の台詞の17、8歳という言葉にだまされて、20歳代の巴とト書きにあったのをお忘れになっていたのは以前に書いたとおりです。だから妙な若作り演技になってしまったわけですね。 <br />
<br />
物語のすべてをきちんと読んでいれば、あの時点の巴が五郎にどのような気持ちをいだいているかわかりそうなものです。義仲の身代わりというよりも、真実は大ひのきの化身と巴が無意識に信じている実盛の身代わり。しかも日本の巫女と神の関係の如く、惚れまいらせる相手。自らが手にかけ、とんでもないトラウマになっていたであろう五郎の死。そういったものがすべて含まれていて、あの台詞になっているのです。 <br />
<br />
もう二度と再会できないと思っていた存在に似ている存在が目の前に現れたということ。巫女として、さらには女としての心の疼き。驚きと戸惑いとわずかな喜び。もちろん、五郎を自らが手にかけたという心の傷の痛みや罪の意識もあったでしょう。これが芯に存在していないと、巴の言葉にはならない。完全な女の感性が存在していてはじめて生きた台詞になるんです。これは。当然、むしろつぶやくような声の出し方の方が合っている。ところが男のつもりで言ってしまうと、非常に断定的で自信に満ちた言い方になってしまう。言葉が男の場合、そういう感覚を要請してしまうんです。だから中に巴の心が存在すると、ひどい違和感に襲われることになるわけです。 <br />
<br />
二つ目の台詞も同様に巴の過去から導かれます。半年前に殺した巴という女の魂。それは五郎を思う心そのものだということです。真実は五郎に頼っているのではなく、その向こうにいる実盛を求めているわけですから、五郎を殺すということは、わが神である実盛をも殺すことにつながる。いうなれば、世界を殺してしまったことにもなるかもしれない。巴が巴のままで生きられる、存在できる世界そのものを。 <br />
<br />
そして兼平から要請された役割、義仲の身代わりを演じることを選んだ。ここで思うのです。このときの巴にとって義仲とはどういう存在だったのか。少なくともわが神であろうはずがない。巴という女の女性原理を忌避し、恐れ、否定している男の魂を、女が受け入れられるものなのだろうか。義仲の身代わりに五郎へ向かった巴の意識が真実ならば、義仲はすでに神でもなく、ただ利用すべき存在にまで堕ちているのではないか。そのようなものの魂を受け入れられることが出来るものだろうか。 <br />
<br />
だから私にはこの巴の台詞がひどく虚ろなもののように思えるのです。真実の神ではない、抜け殻の神の魂を自分の体の中の闇に塗りこめたとて、何の喜びがあろう。そこにはただ、虚無の闇が存在するだけなのではないのか。後はすべて、兼平たちの野望のための役割を無理にでも演じようとする心しかないのではないのか。しかし、巴にはその道しかない。生き方しか許されてはいない。真実の神を見失った巫女は傀儡の神に操られるしかない。 <br />
<br />
その空虚さが、心のバランスを崩させる。必要以上の激情、残虐さ、血を求める狂気を生み出させたのではないのか。 <br />
<br />
ここからは、あの巴さんが演じていたような、自分自身で積極的に女の心を殺し、総大将としての立場を選んだ存在は生み出されては来ないのです。やはり女。どこまでも女。 <br />
<br />
あのブーツ。女物ですよね。男の戦装束の中に、精一杯いきがった女の意識が組み込まれている。それは上っ面だけのいきがりであることさえも示唆しているような気がする。その違和感もまた、男の戦じたくになじまない巴の存在をそのまま表しているような気がするのですよね。 <br />
<br />
中身が伴っていなければ、形で暗示しなきゃどうしようもない。そんな演出家の本音も見え隠れするような気がするのですが…。]]></content></entry><entry><title>『わがたま』戯曲を読む?</title><link rel="alternate" type="text/html" href="http://teatro-miriamu.miriamu.net/?eid=943807" /><id>http://teatro-miriamu.miriamu.net/?eid=943807</id><issued>2008-07-12T08:15:08+09:00</issued><modified>2008-07-11T23:15:08Z</modified><created>2008-07-11T23:15:08Z</created><summary>2008年06月15日

わかった！！！ 

年齢換算の謎がやっと判ったような気がする。 

はじめの夢、20代の巴とト書きにあるとおり、これは五郎出奔の折に連れ戻しに向かった時の8年前の巴である。最後に実盛が見た巴の姿。それがこの夢における巴の姿だったのだ。 

...</summary><author><name>ミリアム</name></author><dc:subject>考える</dc:subject><content mode="escaped" type="text/html" xml:lang="ja"><![CDATA[2008年06月15日<br />
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わかった！！！ <br />
<br />
年齢換算の謎がやっと判ったような気がする。 <br />
<br />
はじめの夢、20代の巴とト書きにあるとおり、これは五郎出奔の折に連れ戻しに向かった時の8年前の巴である。最後に実盛が見た巴の姿。それがこの夢における巴の姿だったのだ。 <br />
<br />
もうひとつ、後で巴が『お前は不吉な夢だ、悪夢だ…。』を六郎には五郎が言ったといい、実盛には義仲が言ったという。つまり、巴の中では五郎と義仲は同一の存在として認識されている。共にすがしい目を持つ森の国の希望として、あるいは潜在的には実盛の代わりとして。だから17、8歳の頃の義仲を思い語る夢の中で、セットとしてそれこそ妄想の五郎が共にいることになっているのではないか。 <br />
<br />
六郎を五郎の身代わりとしようとして、その本質の異なりを見抜き、それゆえに自分を助けてくれるのではないかという。つまり義仲･五郎と六郎とは異なる存在と巴には認識された。 <br />
<br />
これはこの物語に義仲が名前だけ出ているのに、姿を見せないことの理由となる。巴がふぶきを殺したのは巫女は二人はいらないということ。同じように、身代わりの神は、あるいはそこまで言わずとも、同じ存在としての本質をいだく者は二人は要らない。物語構造の中で同一のものは二人は要らないということになるのではないか。義仲＝五郎という物語の中での位置取りの同一さがそれを証明する。 <br />
<br />
だから巴は我が神として、さらには男として五郎を欲した。もちろんその先にあるのは真の神である実盛なのだが。そのことに当時の兼平が気づいていれば、あるいはこの物語の時点で、戦装束に身を固めていたのは五郎だったかもしれないのだ。しかしそれを否定させたのが錦の御旗としての源氏の血統ということなのかもしれない。 <br />
<br />
御大将としての象徴は二人は要らない。だからもう一人は殺されねばならない。ふぶき殺しと非常に似通った理由によって五郎は命を絶たれた。しかしそれを巴に実行させたことが、後々の狂気を呼ぶことになった。身代わりとはいえ、神を巫女の我が手で殺させたのだから。行き場を失った巫女の情念は破滅へ向かう。それはレミングの行進にも似て。 <br />
<br />
兼平の目的は実によくわかる。しかし、巴の目的は方向性をすでに失っている。呪われた血の夢にとらわれた巫女の存在。最後に残ったのが大ひのきの化身として巴に見えていた実盛なのだろう。 <br />
<br />
しかしこの物語の後、巴は自らの軍勢が殺した実盛の首を間近に見ることになる。サロメどころではない。実盛は生きていてこそ巴の神になったはずなのだから。後は転げ落ちるような破滅の道しか残ってはいない。 <br />
<br />
背筋がぞっとなるような悲劇の構図ではないか。神話劇。まさにギリシア悲劇に勝るとも劣らない。蜷川氏があえて萬斎と菊之助という古典芸能の雄を選んでこの物語の主軸にすえた意味がよくわかる。しかし問題は巴だ。 <br />
<br />
最初の年齢換算のおかしな夢の部分。某『子午線』の役名M氏とまったく同じ誤りを彼女は犯している。ト書きに20歳代の巴とあり、しかも、明らかに筋の通らない年齢換算が行われている。このときに彼女は、これは何故なのだろうと考えるべきだった。おそらく前出のM氏が役の表面だけを見てこれはつじつまが合わないから、自分の見たM像で行こうと思って気持ちよく演じた挙句、肝心の場面で笑いを呼び込んでしまったのと同じ。 <br />
<br />
戯曲の表面、台詞の言葉にだまされてしまったのだ。おそらく。17、8歳の…。とあったあの文章に。それが事実であったと思い、20歳代とのト書きを無視し、同じ17、8歳の娘のつもりで演じてしまった。しかもその言葉の背景を考えることもせず。ルーチンワークの役作り、器用な役者が陥る誤りの真実がここにある。 <br />
<br />
一見表面上ではつじつまの合わないことでも、掘り下げていくと非常に重要な真実に行き当たる。作者の清水氏はト書きを見る限り、登場人物の年齢換算にはかなりこだわりのある方と見受けられる。それは当然のことで、およそ作家と名のつく人間で、何かを表現しようとする時、登場人物の年齢設定は非常に重要なものになるからだ。世代の差、年齢のわずかな違い、これは結構人物像に重要な影響を与える要素である。しかも細かい26歳だの36歳だのという設定が書き込まれている戯曲で、年齢換算がおかしかったら、そこに必ず作者の意図が隠されていると見なければおかしい。それを怠ったのが、この女優のつまづきの始まりだったと思える。 <br />
<br />
この関連で、実際に義仲が出ていたと仮定してみると、舞台構成として実にうざったい。ほぼ同一の存在が、義仲軍と実盛の周囲とにうろうろしている光景はテーマがぼやけるし、観客の集中もそがれる原因となる可能性がある。だから義仲は姿を見せないのだ。 <br />
<br />
物語の全体構成にまでかかわる重要事項が、一見なんでもなさそうなことの裏側に隠されている。戯曲を読むということは、そういう面で真剣勝負でもあるのだ。それを怠らない人間と怠って上っ面解釈を行う人間。その差がこれほど出た舞台もまた珍しいとつくづく思わせられることではあった。]]></content></entry><entry><title>『わがたま』戯曲を読む?</title><link rel="alternate" type="text/html" href="http://teatro-miriamu.miriamu.net/?eid=943803" /><id>http://teatro-miriamu.miriamu.net/?eid=943803</id><issued>2008-07-12T08:07:29+09:00</issued><modified>2008-07-11T23:07:29Z</modified><created>2008-07-11T23:07:29Z</created><summary>2008年06月15日

やっぱり気になる部分と、少しわかってきたこと。メモです。 

実盛の故郷南井の里についてのこだわり…『南井の里の夕闇は青白い。なぜかどこの里の夕闇より青白い。そしていつも決まって冷たい風がごおっと吹く…』 

実際よくわからない。何か奥に...</summary><author><name>ミリアム</name></author><dc:subject /><content mode="escaped" type="text/html" xml:lang="ja"><![CDATA[2008年06月15日<br />
<br />
やっぱり気になる部分と、少しわかってきたこと。メモです。 <br />
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実盛の故郷南井の里についてのこだわり…『南井の里の夕闇は青白い。なぜかどこの里の夕闇より青白い。そしていつも決まって冷たい風がごおっと吹く…』 <br />
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実際よくわからない。何か奥にありそうな気がするんだが。ひょっとしたら巫女としての巴と相対する要素になるのか？これに関しては他の台詞やト書きにおける風の描写も引っかかる。 <br />
<br />
五郎の出奔が8年前、義仲軍の進軍開始が3年前、義仲の発狂が2年前、五郎の死が半年前。すると、はじめの夢の時点では8年前か。この時点で巴は28歳…(20代というト書きがある)。とすれば、すでに巴は義仲と結婚していても不思議はない。とするともう少し五郎の年齢はいっているはずなんだが…。六郎が物語時点で26歳なら最低限、年子でも27マイナス8歳。19歳。17，8歳ということはないだろう。たかが夢だといえば簡単だが、なんとなく気になること。 <br />
<br />
当然、それ以前、それこそ巴が18歳の頃に実盛は義仲の様子を見に行っていた可能性はある。義仲を救って連れて行ったのは30年前、2歳の時点。ならばやはり今義仲が32歳なら、あの当時義仲は24歳…。巴が18歳の時ならば14歳のはず…。しかし話の流れからすると、実盛の話を聞いて五郎ははじめて8年前に森の国へ行ったのではないのか？？？年齢換算が合わない。どうしてなんだろう…。案外年齢換算ってのは脚本家が意識することで、物語を作るとき、結構チャートなどを書いて確認するものなので、どうにも納得できない。何かの意図があるような気がして仕方がない。 <br />
<br />
ただ、これだけはいえる。ト書き指定ともあわせ、まだ十代の若い娘のように巴を演じた彼女の演技設計は完全に間違っているということ。もうひとつ、これは全体の物語の要請になると思うのだが、この夢の中の若い日の巴は、ふぶきに極めて似ていなければならない。あのエキセントリックな様子が似ていなければならないと思う。巫女は二人は要らない。これも重要なこの物語のポイント。それゆえにふぶきは殺されねばならなかったということ。 <br />
<br />
しかし、本来の年齢設定からすると、巴が始めて実盛に会ったのが義仲を連れて行った時だとすれば、この時の巴は6歳、実盛は30歳だったということになる。これが小釣ヶ谷の大ひのきを見た時。男盛りですな。この時の実盛。まさに巴には大ひのきの化身のように見えたのではないか。もうひとつ、おそらく余人には見えない樹木の命の稲妻が見えたのがこの二人だけであったということも重要。 <br />
<br />
仲原兄弟、特に兼平の都への執着も重要。巴の言葉にもある。木曽は決して住人たちにとって夢の国ではなかった。だが、あるいはそういう過酷な場所で、しかし無垢な(世間知らずともいう)心を持って、日々の生活を生命を燃やすように生きているものたちが、戦の中に身を置く、世間にどっぷり浸かっていた実盛には素晴らしい人間らしい人間たちのように見えたのかもしれない。 <br />
<br />
夢はキーワードとして重要。帰ろうという木曽は本当の木曽ではない。失われた輝ける日々。懐かしい、夢を夢として思って生きていられた頃そのものなのではないか。人を押しつぶそうとするかのような古代の森の中で、夢のように美しい都を夢見ていた。広く豊かな土地に住む夢を見た。世間知らずであるがゆえの幸福。しかし、木曽から進軍し、戦に次ぐ戦、血と汚濁にまみれた日々の中で昔は嫌悪していた木曽が夢の木曽に変わる。すでに失われた楽園としての、自分たちが無垢で幸福でいられた時代の。 <br />
<br />
それでも引き返せない所まできてしまったという悲劇。行き着くところまで行かなければならない。それが都で天下に号令をかけるという夢。行ったところで夢はないかもしれない。しかしそれでも求め続けなければ、ただ滅んでいってしまう。疲弊、擦り切れた、殺伐とした心の中で。 <br />
<br />
眠りの夢。過去の夢。未来の夢。この物語におけるキーワード。そして人間はその歴史の中で、夢を求め夢に食われ続けてきた。夢のために滅び続けてきた。ナポレオン、アレクサンダー大王…。それもまた普遍。 <br />
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夢は殺せぬ。しかし、人は夢に殺される。皮肉な真実だけがそこにある。 <br />
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神としての森については、五郎も言及している。神の森が消え、人が使役する森に変わる。時代の変化。ひょっとしたらと思う。義仲たちはもしかしたら、大ひのきさえ切り倒してしまったのではないかと。五郎がつまづいた切り株。実盛のラストシーンに出てくる切り株。これもまた引っかかること。 <br />
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そして野ねずみ。五郎と巴が言及している。野ねずみがどうしてもレミングと重なる。神としての森の喪失。恐れを忘れ、喰らいつくし広がり、やがて崖から海に落ちていく集団。それは義仲軍にも似て。そして人間そのものもまた。そういえば崖がよく出てくる芝居だった。 <br />
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修羅地獄の中に出てきてえらそうなお言葉を下される世間知らずのインテリの使えなさ。理屈ではなく知識を持つ、決断を持つものの存在の重さ。知恵であり、規範であり、生きることそのものである実盛。しかしその一方で、人の見えないものを見、感じることのできる存在。実盛とは一体何者なのだろう。だからこそ巫女である巴は最後まで執着した。実盛さえいれば、永遠を手に入れられると。 <br />
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そういえば、義仲の嫌った馬とは何を象徴しているのだろう。 <br />
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ラスト、水の音を聞く実盛は確かに某お方の仰ったように大ひのきそのもののように思える。やはり神。日本における神と巫女との関係は恋そのもの。神に惚れ参らせる関係。巫女は神がいなければ、神により方向性を与えられなければ狂うだけ。兼平により仮の神であった五郎を殺した時から彼女の血の夢は始まったのではないか。しかし、まことの神実盛はついに巴のものにはならなかった。 <br />
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巴は普通の女であり、巫女である存在。しかし、自分が巫女であることを最後まで認識しなかった存在でもある。認識せず、無意識のうちに神を求めていた。女としての心の赴くまま。しかしそれは彼女の歪んだ情念により生み出される渦に周囲が巻き込まれていく過程でもある。それゆえの悲劇。 <br />
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これはギリシア悲劇に匹敵するほどの神話ではないか。まさに普遍を含むもの。しかしそうならなかったのは、ひとえに巫女である存在を理解できなかった女優の安易な役理解による。言葉の裏にはこれだけのものが宿っている。そういう戯曲をもらいながら、ついに、ただの女と男の物語としか理解できなかった姿。この心を持って佇めば、巴は間違いなくどのような姿でも、たとえ武将姿でも美しくあれたものを。そこにあるのは武将の振りをした、狂気の振りをした等身大の女優が一人。悪い意味の滑稽ささえ感じるあの造形。自分で感じ取れなかったのか。もっと戯曲に謙虚になれ。戯曲に従え。その上で見えてくるものが本物なのだ。 <br />
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主役の二人は間違いなくそうなっていた。戯曲に究極に従う所から生まれ出てくる、ワザヲギが本来持っている本物の個性、品格そういうものが等身大以上の普遍をまとって現れてくるからこその美しさ。魅力。これが答え。これが真実。 <br />
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戯曲全体をまだ解明しきってはいないが、さしあたっての報告になるかな？きっと主役二人はもっと深く読み込んでいることだろう。だから別格の存在感になっていたということ。安易な字面だけの役作りばかりやっている現代劇の役者には猛反省をして欲しいものだと思う。何より現代演劇の端くれに身を置くものとして情けなさ過ぎる。]]></content></entry><entry><title>『わがたま』戯曲を読む?</title><link rel="alternate" type="text/html" href="http://teatro-miriamu.miriamu.net/?eid=943800" /><id>http://teatro-miriamu.miriamu.net/?eid=943800</id><issued>2008-07-12T08:04:41+09:00</issued><modified>2008-07-11T23:04:41Z</modified><created>2008-07-11T23:04:41Z</created><summary>2008年06月15日

楽日帰りのバスの中、眠くなる意識を振り捨てつつ戯曲を読んでいたら…。 

不思議なことに実盛の台詞に宇野重吉さんの声が、口調がかぶさって浮かんでくる…。ああ、これは民藝に書き下ろされたものだったんだと、改めて納得。 

どうも、清水さん、...</summary><author><name>ミリアム</name></author><dc:subject>考える</dc:subject><content mode="escaped" type="text/html" xml:lang="ja"><![CDATA[2008年06月15日<br />
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楽日帰りのバスの中、眠くなる意識を振り捨てつつ戯曲を読んでいたら…。 <br />
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不思議なことに実盛の台詞に宇野重吉さんの声が、口調がかぶさって浮かんでくる…。ああ、これは民藝に書き下ろされたものだったんだと、改めて納得。 <br />
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どうも、清水さん、宇野さんの演技を思い浮かべながら書いていたらしい。字面だけ追っていくと、どうしても宇野さんしか浮かんでこない。つまりは意図してのものかどうかはわからないけれど、あてがきかそれに近いものと考えられる。 <br />
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けれど、今回の舞台で若旦那の実盛に宇野さんがかぶさることは一度もなかった。『椿三十郎』で織田くんが何をしゃべろうと、三船さんがかぶさって見えてしまったのとはまったく違う。 <br />
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つまりは、同じ脚本(戯曲)を使っても、演じる人間がオリジナルと同等以上であれば、その役者の味、存在感に変えてしまうことが出来るということなんだろう。考えてみれば若旦那は『鞍馬天狗』でも同じようなことをやっている。妻夫木くんの出た『天国と地獄』にしろ、あれほど時代設定的にむちゃくちゃをやっていながら、とにもかくにも作品として成立できたのは役者の力のおかげであったことは間違いない。 <br />
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本当に凄いと思う。今回の若旦那。というよりも最近の若旦那だな。『陰陽師』でであった頃と比べて、なんとこの短期間に、凄い進化を果たしてきたことか。それはまだまだ止まりそうもない。 <br />
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ますます役者として惚れ直した所。これからもしぶとく追っかけていきますぞ(実際、6月22日は追っかけします。苦笑。最初はそんなつもりはなかったのに、気づいたらダブルチケ取りしてた…)。 ]]></content></entry><entry><title>『わがたま』戯曲を読む?</title><link rel="alternate" type="text/html" href="http://teatro-miriamu.miriamu.net/?eid=943796" /><id>http://teatro-miriamu.miriamu.net/?eid=943796</id><issued>2008-07-12T07:58:14+09:00</issued><modified>2008-07-11T22:58:14Z</modified><created>2008-07-11T22:58:14Z</created><summary>2008年06月15日

某所において展開していたシリーズを公開します。戯曲を読む。台本を読むということの参考にでもなれば幸いです。蜷川幸雄演出、野村萬斎･尾上菊之助主演の『わが魂は輝く水なり　源平北越流誌』(清水邦夫　作)の戯曲を元に、今回の舞台を読み解いたシ...</summary><author><name>ミリアム</name></author><dc:subject /><content mode="escaped" type="text/html" xml:lang="ja"><![CDATA[2008年06月15日<br />
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某所において展開していたシリーズを公開します。戯曲を読む。台本を読むということの参考にでもなれば幸いです。蜷川幸雄演出、野村萬斎･尾上菊之助主演の『わが魂は輝く水なり　源平北越流誌』(清水邦夫　作)の戯曲を元に、今回の舞台を読み解いたシリーズ。少々長いですが、ご興味ございましたら、どうぞ。 <br />
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あらすじなどの詳細はこちらでご確認ください。 <br />
http://www.bunkamura.co.jp/cocoon/lineup/08_wagatamashii/index.html <br />
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なお、文中、若旦那とあるのは野村萬斎氏に対する仲間内での愛称です。 <br />
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ざっと某お方から頂いた戯曲の巴の部分だけ言葉に寄り添って読んでみた。で、まずは引っかかった言葉と第一印象。 <br />
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1回目の夢の場面 <br />
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巴『私たちが長年かかってようやく手に入れた森の迷路』…巴たちにとって木曽の山はユートピアでは決してなく、『もののけ姫』で描かれた森の如く、戦う相手であった。 <br />
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巴『新しい森の掟』…森を征服し自分たちの生活に夢をもたらす人間としての義仲と五郎 <br />
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巴『小釣ヶ谷の大ひのき』…神木。生命の木という観点から見れば、あるいはエデンの園の生命の木とも思える。巫女としての巴の神。それを人に見立てた象徴が実盛。他所から来る神。絶対的な男性。 <br />
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巴武将としての登場場面 <br />
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はじめから六郎(その向こうにいる実盛)への思いを吐露している。 <br />
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義仲となったいきさつを語る部分、『巴の体の闇に新しく義仲殿の魂を塗りこめました。』…巫女としての証明 <br />
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巴『巴が全軍の統率者に選ばれたのは…誰よりも恐れを知らぬ魂、不羈の魂の持ち主だったからと…違いますか、兼平。』…兼平に対するこもごもの思いを含む皮肉、あるいは自虐。 <br />
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巴『夢が正夢となり…殺せと…。今も迷っています。』…五郎の事件の再現への恐れも含む。 <br />
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巴『お前も夢か。』…夢もまたこの作品のキーワード <br />
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ふぶき殺しの場面 <br />
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巴の心あるいは精神状態と海の情景の変化は連動。 <br />
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巴『木曽の空は狭かった。』…木曽とは本当にユートピアなのか。現実的な木曽に対する思いがこめられているようにも思える。 <br />
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ここの巴、ふぶきに対する礼とわびは、あのような普通の心理ではない。先に殺しが控えているからこその礼とわび。皮肉。慇懃無礼な雰囲気の中にその剣呑さが含まれているはず。だからふぶきは恐怖に襲われる。 <br />
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巴『この世の一切の終わり』『この世の一切の始まり』…ふぶきの抹殺と関連。あるいは義仲を捨てる覚悟か？ <br />
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巴をののしる台詞。この場面では五郎。後の夢の場面では義仲。混乱している。五郎と義仲を一つの存在と見ている？ <br />
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この場で鉄扇を持っているのが気にかかる。 <br />
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六郎と巴の場面 <br />
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巴の語る兼平の台詞は悪魔のささやきの如く語られねばならない。暗示の如く。その時巴が聞いたように。怒り、憎悪、絶望。その後の『お前こそ業火に焼かれて死ね！』あたりから激情が奔流となって発する。そして狂乱の場へ。我が神、実盛への思いへ。 <br />
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後の夢の場面 <br />
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巴はこの場面で完全に最初からイッている。老練な魔女の如く。やや声のトーンは下がる。妙に自信のあるような、やや高慢な印象。そして悪魔のように誘う。断定的に。 <br />
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巴『この1，2年、巴はみんなに責められ続けました。…今度は実盛殿です。』…すねるように、不安感を持って。 <br />
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その後は我が神である実盛への思いの吐露。いわばエデンの園としての木曽へ。いや、それは木曽ではない。幸せだった時代そのものか。 <br />
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巴『あの裏切り者が何を言う！見つけ次第殺してやる！』…血に飢えた狂乱を垣間見せる。そして絶望。実盛への執着を残し。 <br />
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最後の出番の所 <br />
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巴『野ねずみ』とは何か。木がなくなって増えたという事実以上のものが背後にありそうな気がする。五郎の言葉からも。実際、本当にいたのか。狂気の場合によくあるらしい虫がどうこうと似ている気がするのだが。 <br />
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そして真の狂気へ。最後は楽しそうに笑うだろう。 <br />
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おおむねざっとリサーチしてみた結果です。<br />
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