2008.11.10 Monday
演技というもの
ここしばらく、プロの舞台を観てて思ったこと。今日観た県芸でも思ったのですが。
演技を技術的にやりすぎてはいないかということ。滑舌や発声ということだけに表現を頼りすぎてはいないかということ。
壤さんもよく言うけど、技術だけに頼りすぎた演技は完璧だけど、先が予測できすぎてつまらない。退屈なんです。
後で感想を母屋の方にきちんと書きますが、日常の本人が自分の演技技術で装甲を作って動いているように見えてしまった人がいまして。ここまで極端なのは珍しいんですが、『わがたま』の巴さんも似たような印象がありましたね。
なんだか演技技術が感情表現をしているとでも言えばいいのか。泣いたり怒ったり叫んでいても、なんだか体の芯からその表現が出てきているように見えないんです。外側にくっついた演技技術が表層だけで表現しているような。
多分、上手くて、自信があるほどそうなりやすいのかもしれないとも思うのです。
それと同じに、見えてないのに、感じてないのに台詞だけが走っていってしまう。そういうような感じの演技も多かったように思います。中身がないから、意味もイメージも伴っていないから、言葉に引っかかりもメリハリもなくなる。したがって、聞いている観客からすると言葉が上滑りして何も残らないということになりやすい。
滑舌がよければ大丈夫と思われやすいですが、東京の舞台でプロの演技を見ていてもそういう人は結構多いんですよね。滑舌だけじゃだめなんです。もちろん滑舌がいいにこしたことはないのですが、何よりも自分自身がイメージを持って話せているかということが重要なんです。
お能の方で友枝昭世というシテさんがいます。お能ですから謡は昔の言葉でよくはわからない。でも、この方が演じると、たとえ紋付袴で舞う仕舞でも、能面も装束も、果ては表現されている辺りの風景まで見えてくることがあります。本当にクリアに見えるんです。
この方と同じで、もうすでになくなられた方ですが、観世寿夫さん。やはり紋付袴の仕舞であるのに、能面も装束もくっきりと、記録映像の上に見えてきたこともあります。
何故そういうことができるのかといえば、やはりどれだけイメージをして演じるかということに行き着くのでしょう。壤さんによれば、ちゃんとイメージを見て、演じれば、波動が確実にお客に届くんだ。ということになるのだと思います。不思議ですが実際にそうなんですよね。
このイメージが見えていないのに、感情の流れ任せで台詞をしゃべっている人がかなり多かった。感情だけでは世界はお客には見えません。逆に、対象物に向かうベクトルを意識して演じていれば、それがたとえただのイメージであっても、お客には確実に伝わるのです。
技術に自信があるほど、そうなりやすいのではないか。観ていてそう思いました。だから壤さんは『遊べ』というのだと思います。決まりきった方法論だけでは等身大以上の演技はできません。その先に行くのはやはり、イメージであり、自分という存在、技術も含めてそういうものをいったん捨て去る。枠を壊し、『遊ぶ』ことが必要になるのではないでしょうか。
実際、この間人間国宝になられた野村万作さんにしろ、すでに人間国宝の茂山千作さんにしろ、しっかりとした技術を持ちつつ、それにこだわることのない、まさに舞台上で遊んでいるとしか見えないほど、自由自在、融通無碍な演技が本当に素晴らしいのです。
『遊ぶ』とは楽しむこと。自分も、自分を観てくれるお客も楽しむ。もちろん表現には、無理もありますし、役者本人にとっては辛いことも多いです。でも、それさえも遊ぶ部分の一つなのだと思います。私の感覚では、舞台を観て、泣くことも、悲しむことも、いらつき、怒ることもすべて『楽しむ』という表現の範疇に属しますので。
そうなのです。演劇において描かれる物語、それによって感情を揺さぶられることそのものが『楽しむ』ことであり『遊び』なのです。そういう感情を客に与えること、それを楽しむことが役者にとっての『楽しみ』であり『遊び』である。そうでなければ、何であんなに苦しい思いをしてまで舞台に立つのかわかりません。
必死に台詞を追って芝居する。感情任せで後は技術に頼る。そこには人間として存在する役がどこにもいないのです。役とは普遍であり神である。というのも壤さんの言葉。役を人間として追い求め、自分の中に真に息づかせてこそ、本当の意味で演技は完成するのだと思います。その時にだけ、役者は等身大の自分よりもはるかに大きな存在になれる。
いい役者が大きく見えるのはそのためなのです。
実はこれは、というか、ここだけが、技術の甘いアマチュアでも、絶対にやりようではプロさえ凌駕出来る部分であると私はおもっています。イメージを作る力、想像力というのは誰でも持っているものですから。
声は出ているのに台詞がよくわからなかった。と今回の県芸の講評で言われた役者さんは、このあたりを気をつけていくといいのではないかと思います。きっとそれだけで、台詞の通りはまったく違うものになると思いますので。
2008.11.10 Monday
終わったから言うけれど
県芸、終わりました。
本音をいうなら、やはり自力で自主上演して欲しかった。ということでしょうか。大変なのはわかりますし、相手方との小屋と比較して…というのもわかる。でもね。
県内の演劇団体全体のマツリを自分たちの都合で利用はして欲しくなかったです。本当に。
いいたいこともわかる。こだわりもわかる。でもね。お客に向かう前に、別な方向へ向かっている。作品自体はかなりがんばっていたし、県内で見られるアマチュア作品としては確かにトップクラスだと思う。だけど…。
冒頭での挨拶は余計。私も思う。指していた相手が誰だったのか、それは真実にはわからないけど。もう一度言う。あそこは公の場であって、私情を満足させる場所ではないということ。やるのであれば、やはり自主公演をして欲しかった。
『遊び』ということにこだわるのは、私が常日頃から壤さんの言葉を引き合いに出して『演劇はPLAYである』ということを言っているから。本当はね『観るACT、演じるACT』に落ち着く前、『観るPLAY、演じるPLAY』にしようかと思っていた。なんだか別の意味にとられそうなんでやめたんだけど、もし、こちらのキャプションを使っていたらどうしたんだろうね。
『遊び』という言葉には二面性がある。無責任な、軽い、やりっぱなしの遊びと、本当のプロが自由自在に舞台上で演じることを意味する遊びと。
私は後者の意味の『遊び』を目標にしているから。
一つの言葉を一面性で言い切ってしまったら、それで限定されてしまうものが出てくる。これは、あらゆることについて言えることでもあるだろう。意味も価値も、別の方向から見れば、やはりいくつも出てくる。今日の講評で、ある方が言われたように。
とにかく、この事態の修復はかなりかかりそう。ということだけはいえるかもしれない。でも、当事者間だけの問題ではないよ。周囲では、いろいろな人が、いろいろな思いを抱いて見ているんだから。心配している人も、悩んだ人も多い。そのことだけは忘れて欲しくない。その人たちのおかげで、あの場所に立つことを許されたんだということもね。
私は誰かさんが言ったように『いいたがり』です。それでいいと思っています。思ったことを言っちゃうような阿呆が一人ここにいる。でも、言わないよりはいいのではないかとも思っているので。
2008.09.17 Wednesday
『パコ』の役者シフトについて
『パコと魔法の絵本』で映画的リアルさを背景でがっしり支えているのが他ならぬ妻夫木くんと役所さんですね。この作品、核となる役者さんが何人かいるように思います。
まず上にも書いたように、映画の経験が豊かで、しかも舞台経験もある役所さんと妻夫木くんがリアルな存在感を持って現実の私たちの住む世界との接点を作りつつ、舞台的芝居世界、より架空性、虚構性の強い世界への橋渡しをしている。ふわりとそれを受け止めて、世界に広げている支え役が上川さん。その周囲に土屋さんや小池さん、その他の登場人物たちがふりかけのように(笑)、あるいはキラ星の如く散らばって、世界に彩りを与えている。そして阿部さんが、そのすべての人々の合間をすり抜け、ちょっかいをかけ、結びつけ、全体の流れやテンポを調整し、メリハリを与えているという感じ。もちろんそのすべての人々の中央には、無垢で純粋なパコことアヤカちゃんがいるのは言うまでもありません。
ここで重要なのは、やはり現実のリアルさが背景に巧妙に隠されているということ。だからこそ、お父さんもお母さんも、無意識のうちに、自分でも味わっている人生の苦さ、辛さを登場人物たちに重ね合わせ泣き笑いしてしまうことになるのかもしれません。その重さをしっかりと支えているんです。役所さんと妻夫木くんが。この二人に比べると、他の登場人物たちはやや軽い感じがするのです。役者としてというよりも、この映画における役割として…かな?ただ、大作においても主役級の映画俳優というのはやはりこの二人ですから、存在感の重さがそのまま現実の世界を含んでいるともいえるでしょう。
しかし、役所さんだけだとやはり弱い感じがします。似ていて、しかし対極に立つ存在がもう一人並び立つとパワーが明らかに異なってくる。パコと大貫だけだとかなり単純化され、純粋すぎて浮世離れしてしまいそうなところ、室町とタマ子のラブストーリーが存在することでより人肌の、映画的なリアルさが表れてくるといえるかも知れません。
逆に言うと、役所さんと妻夫木くんがリアルな背景をしっかりと支えているから、阿部さんがどんなにはじけても上手く軟着陸させてしまっているといえるでしょう。もしあの二人がいなかったら、ひたすら浮き上がってしまっていたかもしれません。もちろん、ソフトに受け止めて最終的にあの世界にリアルさをなじませていく上川さんの存在もあってのことですが。さらにはかなりのハイテンションをてらうことなく維持しきっている、その他の役者さんたち全員のおかげとも言えるかも(笑)。
つまりは実に役者のバランス配置がいいということになると思います。結局舞台でも映画でもアンサンブルとして、最後にどう物語が描かれていくかという所に尽きています。しっかりとした技術としての演技力はもちろんあったほうがいいですが、それよりもその世界にあった、必要性のある存在感を持った役者がそろうことの方が重要なのです。私がもし演出をするなら技術しかない小器用なだけの存在感のない人よりも、経験がなくて技術が少々足りなくても実体感を持って存在することの出来る役者の方を選ぶと思います。
その点で、今回の役者さんたちは存在感が天下一品の人たちでした。役割や配置から考えて、ほとんど換えは効かないと思います。それだけ上手く中島監督は今回のメンバーを使いこなしているといえるでしょう。
じっくり見ていると、ファンタジー的なのはあくまでも見た目であり、本質は実にリアルなストーリーであるように感じます。妖精も精霊も出てきませんしね。もちろん魔法使いも出てこない。ファンタジックな要素はほとんどないといってもいい。しかし、そこにまぶされた役者の配置と扮装、CGを使った独自の世界観によってファンタジー的に思えるような世界になっているのです。そしてそこで表現されているのは、普通の人間が、普通の人間に相対することで生まれる魔法のような奇跡ということ。手のぬくもり。差し出された手の温かさ。
大貫の殴った手の無骨な温かさを触った記憶として残したパコの姿。毎朝繰り返されるパコの頬に当てられる大貫の手、不思議そうに確認するパコ、そして『おじさんは大貫だ。』と名のる一連の流れはまるで宗教の儀式にも似て、温かさとともに本当に神聖な雰囲気さえ感じてしまいます。
あるいは、名子役時代の室町が伸ばした手にテレビ越しに手を当てようとする子供時代のタマ子の姿。
なによりも、最後のあのシーンで、一人ぼっちで深い水底に沈んでいくパコに伸ばされたガマ王子の手のやさしさ、温かさは救いでした。
何気ないけれど、そこから救いは生まれてくるのだと思える。もしも、リアルな日本の現実の病院や人間たちのままで描かれていたら陳腐になってしまうかもしれないまっすぐなメッセージが、ファンタジックな虚構性の装飾を施すことで、素直に観客の、子供たちだけではなくお父さんもお母さんも感じることが出来る。そういう仕掛けなのではないかと思えてきたのです。
あるいは…とおもうのです。私が小さい頃、田んぼの向こうに見えていた町並みが、何か自分のまったく知らない、わくわくとした経験をさせてくれる別世界のように思えていた記憶。そこからすると、あの登場人物たちは、最初からパコの心に映っていた現実の人間たちの姿だったのではないかと。ひょっとしたら本当は普通の姿のただのおじさんやお姉さんやお兄さんだったのかもしれない。でも、パコの目にはひとりひとりがおとぎ話の登場人物のように見えていたのかも。そんな気もするのです。それがあってこその、あのサマークリスマスのお芝居の実体化なのでしょう。
ディズニーランドを連想した方が多いのもわかる気がするのです。大人たちでさえ、あの入り口ロータリーに入った瞬間、子供の頃に戻ったような、浮き浮きわくわくした気分になってしまう。この『パコと魔法の絵本』という映画も本当によく似た気持ちを呼び覚ましてくれるように思います。
でもディズニーランドとは違うのは、その背景にリアルな現実の人生が織り込まれているということ。中島監督も仰っているように、あの人たちはそのうち、また、元の日常に帰っていくのでしょう。そしてまた、日常の中に絡めとられ…、でも、パコとの出会いの記憶はほんの少し、それまでの人生とは違った光を心の中に与えてくれる。そのように思えます。
世知辛い人生を歩いてきて、思わず入ることになった病院という非日常の世界でであった物語。これからも苦い人生を送ることになるかもしれないあの登場人物たち。でも、その心の中にはほんのひとかけら、温かい輝きを放つパコという小さな宝石が仕舞い込まれました。それはとても小さい輝きだけど、変わらぬ日常の中できっと、ほんのわずか、それまでとは違った思いを心の中に宿すことになるかもしれません。それもまた小さな、魔法のような奇跡。
なんとなく、そういうお話だったように、思えてきたのです。
2008.09.14 Sunday
ひさびさUP 『パコと魔法の絵本』感想
舞台『MIDSUMMER CAROL ガマ王子VSザリガニ魔人』を原作とした映画。でも、中島哲也監督が『舞台以上に芝居的に』と言うように、実に舞台の芝居そのものの映画でした。
『映画で舞台と同じ芝居をやって何が悪い。』(笑)がコンセプトらしい。でも、本音、実際、栃木県の舞台でもこのくらいのテンションを持った作品が観たいです。県内の演劇関係者は一度この映画をぜひともごらんあれ。絶対に参考になることうけあいです。本当にいい芝居を観た感覚が最後に残りました。もちろん、映像ならではの表現もたっぷりと楽しんだ上で。
三谷幸喜監督の『ザ・マジックアワー』も盛大に舞台的感覚を持ち込んだ作品でしたが、あれはどちらかというと、映画的リアルの方向に引きずられすぎていたのかもしれません。だからそこはかとない居心地悪さが最後まで残ったのかもしれないと、今日思い至りました。
今回の『パコ』くらい、思い切りキャラを見た目まで込みで作り上げてしまい、完全に舞台同様の芝居をさせてしまう。背景となる世界も絵本そのままのカラフルなおもちゃ箱をひっくり返したような世界(ただし、ディズニーのような無菌性はなく、どこか毒を持ち、どこか日本のサーカス的な汚さ…違うか、ううむ、どこかくすんだ絵の具をまぶしたというか、でも実際は原色の嵐なんですが。うまくいえない…)。そうなると、どれだけ芝居的でも、まったく不思議に違和感がなくなるもんなんですね。
無名塾出身の役所さん、この間初舞台を踏んだ妻夫木くん、舞台ベテランの阿部サダヲさんに上川隆也さん、さすがの舞台的テンションを維持した怒涛の演技。この作品、他のキャストも込みで、ただ一人でも、普通のテンションに戻ってしまったら、世界が見事に壊れてしまったでしょう。本当に凄いなあ。その中に本当に純な、ルネサンス期のラファエロなどの描いた聖母マリアに似た風貌を秘めた、アヤカ・ウィルソンちゃんは、まさに天使。いや、ひょっとしたら、苦悩の中に沈む病院の人々を救うために現れた姿をやつした聖母マリアだったのかもしれません。可愛くて無垢。ヘンな手垢がついていない素直さがよかった。
子供は感覚だけで観てそのまま楽しめます。大人は人生の苦さ、辛さを知っていると、それだけいくらでも泣き笑いできます。深いけど、子供でも楽しめる豊かさがスクリーンの中につまっています。登場人物の誰もがそれなりに現実の中で苦い人生を送ってきているのです。その中で、パコだけは永遠に続く今日を生きている。来る日も来る日も誕生日の1日だけを。もうすでにいないママからもらった絵本を、その日もらった誕生日プレゼントだと信じて読んでいるのです。
過去から明日へ、現実の苦い人生を引きずって生きる大人たちと、過去を忘れ、永遠に来ない明日を信じて今日だけを生きているパコの無垢さ。この対比。
だからこそ、パコのために、明日には記憶がリセットされてしまう無垢な少女のために、永遠に変わらない今日ではなく、ひと時のプレゼント。病院主催サマークリスマスの芝居として、パコがいつも読んでいる絵本の物語を上演しようと思い立ったのです。
この芝居の場面が映像ならではの表現になっています。手作りっぽい扮装をした大人たちの姿が、パコの目には実際のガマ王子やザリガニ魔人となって見えてくる。ここの実写とCGの融合が見事の一言。めまぐるしく現実と空想の世界が入れ替わり立ち代り現れる表現。それなのに、納得して観られてしまうのが不思議なくらい。BGMとあいまって、これは燃えます!(萌えるではない)
役所さん演じる大貫のくそじじいっぷりとか、妻夫木くん演じる元名子役の室町の壊れっぷりとか、小池栄子の看護婦演じる沼エビの魔女の『ぶげげげげ〜!!!』とか、阿部さんのヤゴ!(爆)とか、見所はいっぱいです。しかし、役者のシフトがきっちりと決まっているし、みんな見事に演じているから、狂言回しの阿部さんがまたきっちりはまって、いい所でしゃしゃり出てくるのが楽しいこと。
本気で、ラストシーンでは拍手したくなりましたよ。もししてたら、多分みんなも拍手したような気がします。しかし、子供がしゃべる声も、思わず立ち上がって、乗り出して見ているのも、まったく気にならないという実に不思議な映画でした。なぜかみんな食べ物残してるし(爆)。隣のお母さんは泣いたり笑ったり大忙しでしたし(あれじゃ疲れるよなあ…。)。終わった後木村カエラの歌が耳にこびりついてエンドレス状態だし…(苦笑)。
なんだか、スクリーン大の大きな絵本を子供に戻って誰かに読んでもらっていたような不思議な雰囲気の映画でした。うん、絵本です。本当に今回の映画そのものが『魔法の絵本』そのものだったような気がします。今回、あまりストーリーそのものは説明しません。大まかな所は書きましたが。出来たら映画館に行って、ぜひとも、この不思議な『魔法の絵本』を読んでもらってみてください。
2008.07.12 Saturday
『わがたま』雑感 気になる言葉。感想のまとめとして。
2008年06月15日
『馬』
…じゃじゃ馬という言葉もありますし、あるいは結婚式で新郎の友人代表の言う『新車』と同義語かとも。
義仲の罵倒の言葉の中にある表現は巴の女性性の象徴とも思えますしね。女の胎内ってのは、男にとっては案外怖いものらしい。というのは本宮ひろ志氏の『雲にのる』というマンガの作品で、とんでもないシーンが出てくることにも表されているような気がします。
未知の世界への通路。暗黒への道。闇へと続く底なし沼。そこにはどろどろとした情念の黒い炎が燃えている。と、義仲にとっては巴の女性原理が見えていたのかもしれません。それが向かっている方向も(つまりは実盛)。だから巴を拒否した。馬も拒否した。そういうことなんでしょう。きっと。
巴は自らが頼りたい、大事にした人間を自らの手で殺す運命の中に生きている。それによりこの世における存在基盤が根本から崩れ去っていく。人間の女としてのそういう要素と共に、わが神と思いたい存在を自らの手で抹殺するという、自らの胎内に神を宿すという巫女の本質をも否定されている。日本において、巫女と神との関係は古代、常に恋であり神婚であったのです。それでもなお、『巴の身体の闇に新しく義仲殿の魂を塗りこめました。』と言ってしまう。義仲は偽りの仮の神に過ぎない。しかも巴の胎内そのものを罵倒するほどに怖れている。そのようなものを本当に塗りこめるはずがない。女であれば。
この欺瞞が巴をさらに血みどろの狂気に陥れていく。闇の巫女とも言うべき存在へと変えていく。本当はこのあたりが描かれていなければならなかったんですが。女性という性、巫女としての性(さが)、狂おしい激情を持つ女であり巫女である巴が、その女性原理(巫女が巫女である基盤もここにある)を汚され否定されつくし、その先に闇の巫女、狂気の巫女として立ち現れてくる。そうすれば、巴の立ち位置は明らかになります。実盛を挟んですべてを冷静に見る存在へと変わった五郎と対峙する。そして、義仲側があの親子の物語と接続され、一つの大きな神話として立ち現れる。
今回、この二つの物語はどこまでも平行線で有機的に融合することはなかったような気がします。実は以前、『奇跡の人』を観た時に、この物語が実はヘレンをはさんだアニー・サリバンとヘレンの母ケイトの対峙するドラマだと、大竹しのぶ、余貴美子という配役によってわかったということがありまして。その時の舞台で展開された物語は、以前に観たものより、はるかにダイナミックなものになっていました。つまりはそういうものが生み出されてしかるべきだったのに、そうならなかったということ。それもこれも巴がどこまでも等身大の、ただの悲劇の女性でしかなかったからに他なりません。
『戦争が狂気を生み出すのではない。人の狂気が戦争を生み出すのだ。』
これがまったく逆に観客に捉えられてしまったこと。それが巴を等身大にしてしまった、あの実力派女優さんの導いた結果だったということになるのだと思います。しかもその狂気が、いわゆる現世レベルのものではない。神話レベルのものでなければならないのに、あまりに表層的に描かれていたのが残念でした。存在の奥底から発するどろどろとした…白石さんあたりが得意そうだな(苦笑)。もう少し、現代劇役者さんたちには頭で戯曲を読むのではなく、魂で感じることをお願いしたいと、切実に思ったことではありました。
『化けもの』
人生50年の時代に60歳まで生きて、穏やかなじい様としての生き方ではなく、戦乱に次ぐ戦乱を求めて生きている。闘うことそのものが自分の存在という、実盛自身の生き方を思っての言葉でしょう。60歳過ぎて若いのが駆け回る戦場で、嬉々として戦い続ける己、自分の子供のようなものたちを斬り伏せ、倒していく自分。どう見ても尋常な存在ではない。精神も肉体も。それはあるいは自慢してもいいことなのかもしれないが、人としての生き方としてはどうなのだろう。まともじゃない。という自覚が背景にあるような気がします。だから五郎が『父上…。』とその後の台詞を続けるのです。
しかし、一方でその生命力、何者にも犯されず、揺るがされないその意志の強さはやはり、あの大ひのきに例えられるものでもあるわけで。凛とした、毅然とした魂を巫女である巴はわが神と見ているわけですから。そういうところから見れば、実盛はこの物語においては間違いなく特別な存在としての位置を得ているということになるのでしょう。
ということは、実盛&五郎パートでは、不完全ながらも神話的世界が展開していたということになるのでしょうね。しかし、その分、この親子の物語が、他の部分と比べて浮き上がりすぎてしまったということもあるかもしれません。何しろ、この二人だけで、舞台すべてが埋まっている感がありましたから。巴たち、現代劇メンバーの方では、どう見ても舞台の上に等身大の役者がそろっているという構図しか感じられませんでした。だから、その周囲以外は…、ああ、セットがでかいな。という思いしか浮かばないんですね。あのセットが違和感があるのは、役者がセットに乗っているからで、実盛親子のように舞台全体を飲み込んでいれば、それほど違和感が生まれては来なかったのではないかと思います。つまりは、ここでも等身大の存在感、演技が問題になってくるということ。
とにもかくにも、そういうわけで、今回の公演、伝芸組の充実度と比べ、現代劇組の力不足…というよりも、役や戯曲の理解不足が露呈した作品になったということが言えそうです。といっても、同じような問題は、『子午線の祀り』でも指摘していたことではありますが。演技を通り一遍の理解で演じる。等身大の演技ばかりがもてはやされる昨今ではありますが、それってどうよ?と、蜷川さんや伝芸組の視点から異議申し立てをしているような、そのような印象の残った作品だったと思います。何せ品格はもとより技術的、役作りの魂の入れ方、舞台上の存在感すべて、現代劇組は白旗状態の結果になったとしか言いようがありませんから。
まったく同じことを、そういえば、石田幸雄さん(野村万作さんの弟子)親子の出た『高野聖』でも感じましたね。本当に伝芸恐るべしです。ということで、このあたりで『わがたま』に関する感想を締めとしたいと思います。毎度のことですが、長々とお付き合いいただき、本当にありがとうございました。